「宮古上布」の運命の糸
澄んだ夜空に星々がきらめく、そんな薄布。あけずば(トンボの羽)とも呼ばれる宮古上布は、今も昔も夢の夏衣だ。
類まれな美しさは、沖縄の他の織物と同様、琉球(りゅうきゅう)王府や薩摩藩への貢納布という重税により、磨かれていく。島で育てた苧麻(ちょま)(広義には麻とされるイラクサ科の植物)の茎は、浜のミミガイで皮を削ぎ、指と爪とで毛髪ほどの細さに裂いて、撚(よ)りつなぐ。極細の糸があればこその繊細な絣(かすり)文様。琉球藍で染める地色は濃く深く、絣を引き立てる。辛く苦しい歴史から生まれた美は、重税を解かれた近代に入るとさらに精度を上げて、「薩摩上布」の名で大いに好まれた。大正中期の年間生産数は一万八千反に及んだという。
「苧麻栽培から仕上げまで、全工程が島の人の分業で行われる、それが宮古上布を支えてきました」と語るのは、岩本大輔さん。十八年前、すべて手仕事でつくられる本物の麻織物を体得したい、と宮古島に突撃移住した人だ。妻と乳飲み子を連れて、受け入れ先も未定のまま、職を辞しての決断。「島の人には、来ちゃったのねー、と言われましたが、何か自然の成り行きでした」
そもそも岩本さんは、幼少期に心を射抜かれたブラジル体験を原点に、興味を抱いたものとまっすぐ向き合う力を育んできた。その熱量が宮古上布に向かえば、好機はちゃんと巡ってくる。
苧麻績(う)み、機織りを学ぶ機会が生まれ、合間をぬって苧麻や藍を育てる人に教えを請い、藍建てや糸染めにもじっくり取り組んだ。「時間をかけてこそ見えるものがあると思ったんです」
また社会経験やコミュ力を見込まれ、宮古織物事業協同組合や、国の重要無形文化財の宮古上布保持団体と国の選定保存技術の宮古苧麻績み保存会の事務にも関わっていく。
分業が技術を高め、生産量を伸ばした宮古上布だが、それゆえに問題点が見えにくい。年間反数が十反前後となった昨今、現状打破のためにも、制作と事務に精通する岩本さんは貴重な存在で、市の教育委員会が管轄する宮古上布の担当職員として、超多忙な七年を経験もした。「結論として、織りの楽しさを伝えることが大切、と。未来を担うのは子どもだからと、小学校でワークショップを始めたんです」。宮古島では定番の、贈答米の紙箱を利用した簡易織り機を考案、身近な素材を糸にして自由に織る。これが大人にも広がって、今も機会があればワークショップを開いている。
現在は制作に専念する岩本さんだが、団体の仕事には関わり続けている。「僕はこの島の織物が好きなんです。涼やかなこの布の魅力を知ってほしい。そのためにできることを続けたいんです」。極上の上布とともに、島で織られてきた宮古麻織や、苧麻を使ったオブジェにも視野を広げる。岩本さんの自由な発想が宮古島を「織りの島」へと導く未来を、小さな絣星にそっと願おう。
文=田中敦子 イラスト=なかむらるみ
たなか・あつこ 手仕事の分野で書き手、伝え手として活躍。工芸展のプロデュースも。とある仕事のお礼で60年ほど前の丹波布をいただく。丹波布復興時代の貴重なもので、着物に関わってきたご褒美に思えました。