「紅花」の不思議なチカラ
『源氏物語』で異彩を放つ鼻赤姫「末摘花」は紅花の異名。茎先にある花弁を摘んで赤を染めるゆえだ。原産地はエチオピア、エジプトとも言われ、シルクロードを渡ってアジアに伝わったという。
日本渡来は五世紀頃。平安朝では姫君を彩る深紅や桃色の染料として尊ばれた。口紅にもなった。また、血行促進などの漢方薬として女性を癒やしてきた。
江戸時代には、出羽国(現在の山形県)最上川流域で「最上紅花」が盛んに栽培されるようになる。この花は半夏(はんげ)の頃、ポッと一輪咲くのを合図に開花が始まる。採取は花の棘(とげ)が朝露で和らぐ早朝。娘たちが素手で摘み、水を加えて搗(つ)いて発酵させ、発酵液を絞って煎餅形に整え天日で干す。そうして、北前船の荷となった。「今でこそ、米沢織の染め色として知られますが、かつては材料供給地で、加工は江戸や京都でした。富裕層の衣や口紅になりました」と話すのは、「紅花音羽屋」十四代目の石井美由樹さん。紅花の産地・置賜(おいたま)エリアで農工商に関わってきた事業家「音羽屋小右衛門」の名を受け継ぐ。「紅花も扱っていたようです」
しかし、紅花の近代史は切ない。明治に入ると、花が生み出す姫の色は、外国産の紅花や、化学染料に押され、太平洋戦争中には贅沢(ぜいたく)品として栽培禁止の憂き目に。「気がつけば、最上紅花は、幻の存在になっていたんです」
転機は戦後少し経(た)った頃。「農家で発見された紅花の種から始まりました。最初は、この蕎麦の実に似た種はなんだ? とそんな感じだったそうですよ」と微笑(ほほえ)むのは美由樹さんの母、新野いく子さん。「やがて最上紅花の復活に深く関わった染色家・鈴木孝男先生を中心に保存会が発足、祖父も種を譲り受け、それを祖母が育てました」。今から60年以上前、夕暮れ時の畑一面に咲く紅花の美しさは、のちに紅花生産者となるいく子さんの原風景だ。
復活した最上紅花は、乏しい資料ゆえ試行錯誤したものの、高度経済成長期には生産農家が増加、組合もできた。紅花染めの置賜紬(つむぎ)など地産の染めも再び始まり、山形を代表する県花にも。
現在、いく子さんと美由樹さんは、「紅花音羽屋」として無農薬の紅花を育て、紅餅を組合に出荷、並行して美由樹さんは、お茶やスキンケアなど、新しい紅花商品を開発、販売している。
これら新商品は、十代で経験した重度の薬害蕁麻疹(じんましん)や、出産による母子共々の皮膚疾患を、紅花の成分が治癒してくれた経験の産物。自身の肌のために学んだアロマの知識を生かし、生来の探究心から古文献に当たり、研究者に教えを乞い、薬効の検査依頼などを地道に重ねた。紅餅づくりの工程で処分する発酵液の薬効に着目するようにもなった。
古来、漢方としても重用されてきた紅花の力を、美由樹さんは身をもって感じている。祖母、母、娘とつながって、紅花の秘めたる力を引き出した。紅花は女を染めて伝わっていく。
文=田中敦子 イラスト=なかむらるみ
たなか・あつこ 手仕事の分野で書き手、伝え手として活躍。工芸展のプロデュースも。2024年4月6日~14日、札幌の「せき呉服店MARUYAMA」にて帯留め展を開催。お話会も開く予定です。