「養蚕」で人類の未来を描く
着物といえば絹で、かぐや姫も光源氏も絹衣をまとった姿で描かれる。だから、日本は古くより絹を生み出す養蚕が進んでいたと思いがちだ。間違いではないが、上質な絹糸や絹織物は長らく中国頼みだった。国内生産が盛んになるのは江戸中期以降で、国策として日本各地で産業化したのは明治時代。絹は外貨を稼ぐ主要輸出品で、各地に製糸工場が生まれ、農家は桑畑を耕し、養蚕に勤しんだ。
そんな養蚕黄金時代の初期より続く養蚕農家が、甲府盆地を望む山梨県の富士川町にある。「アシザワ養蚕」は、産業としての養蚕を守り続け、今六代目の芦澤洋平さんが新しい養蚕を探っている。
「子どもの頃から手伝いはしてましたが、虫を飼う仕事が恥ずかしくて、好きな女の子に言えませんでした」
と話す洋平さんは、猫や鶏と遊ぶことが大好きで、長じて動物園の仕事に就くことに。
「ある日、職場で実家の話をすると、すごいじゃん、今、養蚕農家は少ないんでしょ、という反応があり、考えさせられました。そして少し調べてみたんです」
近隣に多数あった養蚕農家が芦澤家だけとなり、日本全国、どこも黄金期に比して見る影もない。誰も継がなければ日本の養蚕文化は終わってしまう……。
家業に入ると決めた七年前、洋平さんはまだ20代後半。父・定弘さんは、養蚕農家が激減していく中で踏ん張り、大型の蚕飼育設備を充実させもしていた。「アシザワ養蚕」の年間蚕飼育数は約130万頭で繭の生産量は全国トップレベル。
「すべてが新鮮で、父の仕事に感動しました」
養蚕の仕事はハードだ。まずは孵化したばかりの蚕を育てる。脱皮しながらぐんぐん育つ蚕に新鮮な桑の葉をたっぷり与え、風通しよく清潔な環境を保ちながら、成長に合わせて蚕の部屋を変えていく。
「太古から人と共にあった蚕は家蚕と呼ばれ、人の力なしには育たないんです」。
そうしてできた繭の出荷まで、約40日は休みなく働く。これを年間5、6回。「桑だけで、なぜ絹糸を吐けるのかも不思議で面白くて。でも慣れてくると、従来の大量生産に疑問を抱くようになりました」。洋平さんは、定弘さんと何度も衝突、家を離れた時期も。が、養蚕を諦めきれず、家に戻ろうと決意する。
「60代の父は十分現役です。でも今は僕の取り組みを理解してくれています」
国産繭の多くは助成金込みの価格で買い取られ製糸されるが、その慣例の先行きを考え、洋平さんは助成金なしの販売に挑戦。また、蚕や絹の効能に着目する人たちと繋がり、化粧品や医療品、酒、また新たなタンパク源として注目の昆虫食へも視野を広げている。SNSで若手養蚕家との情報共有にも熱心だ。少しずつだが、各地で若い養蚕家が誕生しているという。これはうれしいニュースだ。
洋平さんの目標は、いつの時代も社会に必要とされる蚕を育てること。蚕が人類を救う未来が現実味を帯びている。
たなか・あつこ手仕事の分野で書き手、伝え手として活躍。工芸展のプロデュースも。これからの時代の着物ルールや着こなしをテーマにした書籍『J-style kimono 私のきもの練習帖』(春陽堂書店)を2022年3月下旬に刊行予定。