組紐の玉音が鳴り続く
江戸の末、亀戸天神の太鼓橋再建を祝し、芸者衆から流行したお太鼓結び。ずれぬよう締めた紐が帯締めの始まりとか。 一方、明治の廃刀令で、刀装具に携わる職人たちは、刀の下げ緒に使われていた組紐の新たな用途を求めた。多彩な柄と締めやすさに、誰かが閃ひらめいた。かくして下げ緒は帯締めに転生、京都、伊賀、江戸などで盛んに組まれ、広まっていく。
組紐自体の歴史は古代に遡さかのぼり、世界各地に存在した。三つ編み的な単純なものから、道具が木製に進化し、複雑な組み方に。産業革命期には機械式も登場、日本の組紐業にも導入されて、戦後には機械組みの帯締めが主流となっていく。 加速化する工芸の工業化に、戦前より警鐘を鳴らしていた民藝運動の柳宗悦やその同人は、戦後も各地に残る手仕事を巡っていた。東京での修業ののち、大正中期に郷里の間々田(栃木県小山市)で開業した初代・渡邉浅市、息子の操ら一族による組紐にも着目。伝統的な手組みを高く評価した上で、糸や色の改良を助言、「間々田紐」と名付けもした。以後、手組み、草木染め、国産絹の、ふっくり健やかな味わいが受け継がれ、現在は、三代目の渡邉靖久さんといとこの石田久美子さんを中心に制作されている。「大学2年の時に二代目の父が急逝、私が継ごうと決めて、卒業と同時に家に入りました。もう19年になります」
日光街道沿いの店舗兼工房には、初代の道具も現役で並び、丸台、角台、重打台、綾竹台、高台と組台を使い分け、様々な組紐が生み出される。打ち込みのあるなしなどの違いはあるが、重みのある組玉に糸を巻き付け、玉の移動で紐を組む仕組みは共通で、玉数が増えるほど複雑に。玉同士がカチコチと当たる音だけが響く、静かで凛りんとした作業だ。
が、これは表舞台。この前段階の〝仕込み〞が肝心なのだ。色とりどりの染め糸が納まる棚の前で、仕込みが行われる。帯締めの長さは約1・5メートルだが、冠組、唐組、笹波組など、組み方で用尺は変わる。不足や余分がないよう計算して、必要な糸を切り揃える。
先代が受け持った仕込みを、今は靖久さんが、組みと並行して行う。いとこの久美子さんは「仕込みがないと組めません。私は組むだけですから」と労ねぎらう。家業ながら白紙の状態で入ったいとこを、先に始めていた久美子さんは見守ってきた。仕込みの絹糸は繊細でばらけやすい。扱いかねる靖久さんに、祖母が「糸の気持ちになりなさい」と教えたこともある。
こんなこともあった。教本通りに組むと父の紐とはどうも違う。そこで、「父の紐を解き戻しながら、独自の工夫を知りました」。亡き父の手が伝わってきた。
組紐は、糸の撚よりや玉の落とし方で目が変わる。代々目指す、美しく使いやすい紐を、とゆっくり仕事を進める。夕方、店の奥で、小学校から戻った息子さんの声。「仕事を継ぐと言ってるんです(笑)」。靖久さんの顔がほころぶ。
たなか・あつこ 手仕事の分野で 書き手、伝え手として活躍。著書多 数、工芸展のプロデュースも。この ところ帯芯が悩みの種。夏帯の芯 地の色、厚手帯地の場合の薄さ加 減。お任せしてはならじ、と反省。