染め織りペディア12

たくましく、美しい。 「琉球藍」の物語

 空の青を映す海。眩まばゆく光る珊さん瑚ご 礁しょうの海。青の島、沖縄。この島に、青を染める植物がある。日本の藍といえば徳島の阿波藍(タデ科の蓼藍)が知られている。でもこれは本土の藍で、亜熱帯の沖縄に古くからあるのは違う植物、琉球藍(キツネノマゴ科)だ。この琉球藍から泥藍と呼ばれる濃縮染料がつくられる。藍は生葉でも染まるが、濃縮染料にすることで早い、濃い、堅けん牢ろうと、三拍子揃った染料になる。


 沖縄の島々には、古くからの技法を守る布が多く受け継がれている。色鮮やかな紅型、凛とした首里織、おおらかな琉球絣がすり、糸味豊かな久米島紬つむぎ、野趣ある芭ば 蕉しょう布、涼やかな宮古上布や八重山上布。どれもが琉球藍の青を必要としてきた染め織りで、泥藍を使ってきた。が、伝統工芸が衰退するにつれ、産業として発達してきた泥藍づくりも生産者が減り、ただ1軒となって以来、後継を危ぶむ声をあちこちで耳にしてきた。


 だから、30代の青年が泥藍をつくっていて、しかも品質がいいと聞いた時、とてもうれしくて、会いたい人リストに加えたのだった。


 青々と茂る琉球藍の畑で、池原幹人さんは新しい畑に挿し木する穂を摘み取っている。周囲は「やんばる」の森。鳥のさえずりだけが聞こえる。この畑を始め、4カ所にある藍の畑を、池原さんは1人で管理しているという。


 日焼けした顔をふと上げた池原さんは、「琉球藍の葉は、色素が濃くてよく染まるんですよ」と言いながら、葉っぱをひとつかみしてちぎり、ぎゅうぎゅう揉もんで大きな掌てのひらをパッと広げた。緑の汁が泡を吹きながら滴り、空気に触れて青に変わっていく。大昔の人が藍を発見した時の驚きって、きっとこんな感じだ。


 池原さんが琉球藍の栽培と泥藍製造を手がけるようになって7年になる。畑がある場所は、沖縄本島の北部、本部半島の伊豆味。明治時代に入って以降、琉球藍の栽培と泥藍製造で栄えてきた土地だ。

「琉球藍は日差しに弱いので、山の中が栽培に向いていたんです」
 宮古島の離島、伊良部島出身の池原さんは、ファッションの世界に憧れ東京のアパレルメーカーで働くが、いつしか故郷・沖縄の染織へと心が動き出して、島々の産地を巡り始めた。その最中、琉球藍と巡り合ったのだった。


 伊豆味にあった廃屋同然の古民家と土地を借りるところから、池原さんの「藍ぬ葉ぁ農場」は始まった。


 かつて田畑だった土地は、放置されて森に戻りつつあり、開墾が必要。池原さんは、ユンボやトラクターを駆使しての大作業を、まわりの力を借りながら自分でやってきた。「大変だけれど、面白いんです。僕は、藍という染料が好きというよりも、畑づくりから始まる藍の仕事に魅力を感じたのがきっかけですから」


 倒壊寸前だった、と池原さんが苦笑いする古民家は、地元の大工さんとともにリフォームして見事再生。機織り機が置かれ、染めた糸や制作したシャツ、ショールが整然と並ぶ心地いい空間に生まれ変わった。外には開墾第1号の藍畑と、染め場がある。その横に工事現場で目にする白いコンテナハウス。池原さんの住まいだという。

「以前はアパートから通っていたんですが、ここで暮らしたほうが何かと便利で、職住一体にしたんですよ」


 早朝からの畑仕事、泥藍づくり、糸や布を染めて、機織りをして、と藍一筋の日々なのだ。
 最初は、自分で使うために藍を育て、泥藍をつくり始めた。が、泥藍の存続が危ぶまれ、つくり手からのSOSもあり、生産量を上げるため、必然的に畑が増えていったのだ。


 自分で染めや織りもする池原さんには、つくり手への敬意がある。「僕の泥藍を使ってくれる人たちは、長年織りや染めをやってきています。高い技術を支えるためにも、品質にはこだわりたい」ときっぱり語る。収穫するとすぐに萎れてしまう琉球藍、そうなるといい色素が取れないので、1回の収穫量にも気を配る。

 

抽出液に消石灰を加えて撹拌する様子。撹拌後、半日ほど置くと藍色素が消石炭とともに沈殿する。藍草に含まれる色素、インジゴが消石灰とくっ付き泥藍に。昔は消石灰の代わりに珊瑚を焼いて使ったという。

 昨年からは、戦前このあたりで盛んに使われていた藍壺(いぇーちぶ)を発掘復元して泥藍づくりをしている。畑のそばに並んでいる小さな丸い溜ため池が藍壺だと教えてくれた。まだ修理していない藍壺が、森の中にある。こんな風にして朽ちていくはずだったものを、「借りる予定だった畑に向かう途中、草に埋もれているのを見つけて、ここを借りたい、と変更してもらったんですよ」。


 今は製藍作業前の休憩期間。雨水が溜まっている。あらら、アメンボに、アカハライモリも! 藍づくりの場所が自然とともにある。藍畑の傍らに藍壺がある昔ながらの風景だ。これなら、収穫ほやほやの藍葉で泥藍づくりができる。ただし、ひとつの藍壺で作業を通す昔ながらの単槽式では草のカスを取りのぞき切れず、品質に難が出やすい。だから池原さんは、藍の抽出液だけを汲くみ出して泥藍をつくる近代的な二槽式と折衷して、新しい「泥藍づくり」に取り組んでいる。


 産業として大量につくるとなれば合理化、効率化を目指してしまう。それゆえ目をつぶらなければいけないことも出てくる。が、池原さんは使う人のために品質を考える。また、古い方法がベストではない、と「染める人」としての目線で判断する。情緒ではなく本質を見極めて、上質な泥藍を生み出しているのだった。

泥藍に灰汁(あく)と糠(ぬか)だけを入れて建てる「天然発酵建て」。1日1回撹拌する。「泥藍には欠かせない管理のルーティン」と宜保さん。

 そんな池原さんの存在を教えてくれたのは、紅型作家の宜保聡さんだった。大きく琉球紅型と括くくられる中には、多色使いの紅型のほかに、琉球藍で染められる藍型がある。宜保さんは、3年前から藍型に取り組み始めた。「紅型は顔料を刷毛で染めますが、藍型は藍甕がめに生地を浸つけて染めます。型紙を使うのは一緒ですが、様々な点で異なることが多くて、両方をやるのは無理だと思っていたんです」


 現在、手がける人はごくわずか。派手さがなく、高く売れず、藍の型染めならほかにもあるから、だという。「でも、始めてみたら、これが面白いんですよ」


 どう染まるか予測できないところがあるし、生地によっても染め上がりが違う。紅型は、作家が型紙を彫るのだが、藍型にふさわしい図柄を考えないと紺と白のコントラストが生きてこない。課題は多いが、何より大切なのは泥藍の品質で、「池原さんのつくる泥藍はとてもきれいに染まるんですよ」と宜保さんは満面の笑みを見せる。藍型を始めて2年目に出会った池原さんの泥藍が、藍型に性根を据えてかかる決定打となった。池原さんの品質へのこだわりが、宜保さんにはちゃんと伝わっているのだ。


 一人仕事ゆえ、泥藍の生産量は限られる。が、それでいいのかもしれない。できる範囲で質のいいものを追い求め、必要な人に手渡していく。ものづくりが好きだからこそ続けていく。その熱意が次々とつながれば、残るべきものとして未来にバトンタッチされていくのだ。

たなか・あつこ 手仕事の分野で書き手、伝え手として活躍。著書多数、工芸展のプロデュースも。2020
年は、染織系の書籍に取り組む予定。染めるように、織るように、時間をかけてつくろうと決意。東京松屋
銀座で開催される〝「七緒」の和トセトラ〞では、4月9日(木)に数寄屋袋プロジェクト「襷(たすき)」をテーマにトークショーを予定。

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