『浮沈』永井荷風

昭和初期、何の後ろ盾も才覚もない女性が生きていくのは大変でした。美貌に恵まれたさだ子は西銀座の女給として働いていたところ、バアの客に見初められ、文京区(小日向水道町)の裕福な家に嫁ぎます。義母にもかわいがられ、幸せに暮らしていたのですが、平穏な日々は長くは続かず、夫が流行感冒で早世。親族に屋敷を乗っ取られて、実家にも居場所がなく、またあてのない生活に……。
そんなさだ子を昔から狙っていたのは故郷の栃木の英語教師、藤木です。実家にさだ子を嫁にもらいたいと申し入れたり、さだ子を追って東京まで来たり、その強すぎる執念が天に通じたのか、浅草で遭遇。「年は三十ぢかく、色の真黒な、目のきょろきょろした痩せた男」で、髪の毛は「おそろしく縮れて癖のある」という、見た目もキャラもクセが強めな藤木をさだ子は内心嫌っていました。「あんたに逢(あ)いたくってさ、追っかけて来たんです。」と街中で口説いてくる藤木。その時はなんとかまくことに成功しますが、藤木はあきらめず、さだ子のアパートを突き止めると引っ越してきます。しばらくはさだ子に隠れ、姿や部屋を見ていたという行為にぞっとさせられます。なんとか逃げてほしい、と思っていたら、さだ子の昔の女給仲間で美術家の愛人をしている蝶子が藤木とつながってしまい、外堀を埋められてしまいました。
驚いたのは次の章が「藤木とさだ子の縁談は……」で始まり、さだ子があっさり結婚してしまったことです。気乗りはしないけれど「断然拒絶するほどの覚悟もなく」受け身のさだ子。有り合わせの着物で仮祝言を挙げます。藤木は頰ずりや接吻(せっぷん)をしようとしますが、その度にもがいたり離れたり、抗(あらが)います。藤木の部屋で肌着一つになって着物をたたみながら、ほろりと涙をこぼします。「そうか。それほどいやなのか、仕方がない。」と藤木が溜息(ためいき)をつくと「わたし、わたしが悪かったんです。御免なさい。」と、さだ子は謝罪。女の身一つではこうするしかなかった、という諦めと、自分の不確かな運命を嘆いているようです。哀れっぽい藤木のリアクションが、自分の心境と響くものがあったのでしょうか。夜の夫婦生活を重ねるうち情がわき、あんなに嫌だった藤木に愛着を覚えます。
いっぽう藤木は四十近い未亡人と結婚前から関係を持っていました。彼から発せられる邪気のせいか、色黒の肌が「何の品格さえもない」と感じるさだ子。友人の前で威張って亭主風を吹かせるところなど、嫌な点が見え始め、知り合いの紳士、越智と再会したことがきっかけで、突発的に家出。かたや、越智は「教養の深くない、そして身分の無い可憐(かれん)な女」「女給上りの女」で、「出来合の着物」を着ているさだ子にハマっていきます。自己肯定感が低いさだ子に「謙遜の徳」を見出(みいだ)し「無限の愛情と憐(あわ)れみ」を覚えるのでした。自分より弱い立場の美女に萌(も)えるという男性の習性は今も昔も変わらず、モラハラの気配を感じます。女性が精神的に自立していないと、身体や心を男性の意のままにされてしまう……そんな教訓が隠されている小説です。
しんさん・なめこ 東京生まれ、埼玉育ち。漫画家、コラムニスト。 武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。『江戸時代 女の一生』(三樹書房)ほか著書多数。なめこさんのかつての“ふてほど”体験は、業界人男性から、「なめちゃんの友達に巨乳の美女がいたら紹介してよ」と言われたこと。隔世の感ありです。
文、イラスト=辛酸なめ子 撮影=中林正二郎(snow) 選=澁谷麻美(BIRD LABEL)