辛酸なめ子の着物のけはひ 『思い川・枯木のある風景・蔵の中』宇野浩二

『思い川・枯木のある風景・蔵の中』宇野浩二

恋愛関係は、思うより思われる方が優位になりがちです。作家の牧新市と芸者の三重の場合は、圧倒的に三重の思いが強く、彼女のアプローチで関係がはじまりました。

三重には「月給さん」と呼ぶ檀那(だんな)がいたものの牧に惹ひかれていきます。21歳にして芸者として働きながら芸者屋も営んでいるやり手の三重。のちに茶屋のお上に聞いたところによるとパトロンからのお金を合わせて想定月収は1000円(今の180万円くらい)。身なりも持ち物も一見地味だけれど凝っていて贅沢(ぜいたく)だったというのも納得です。

仕事のできる三重の原動力は恋愛でした。恋愛至上主義を自任し、震災直後の非常時に牧に手製の襟巻きをプレゼント。2人で京都や奈良、大阪などを夫婦のように旅します。この時肉体関係に至らなかったのが、三重をさらに狂おしい気持ちにさせたのでしょうか。牧と出会ってから、それまでおもしろいと思っていたものがつまらなくなったと語り、ついに「月給さん」と別れてしまいます。懐事情は苦しくなったけれど、また旅に出る2人。三重の思いとは対照的に淡々としている牧に対し、こらえ切れずに「先生は、……あたしを……お試しになっているのですか……」と泣きくずれたこともありました。2人の名前の刺繍入りのがま口をプレゼントされても気のない様子の牧。元祖草食系男子でしょうか。「先生は、いったい、あたしと『文学』とどちらが、すき」「……僕は、やっぱり、『文学』だね」というやりとりも。禁句とされる「私と仕事どっちが好き」的な質問を投げかけられ、仕事と即答。しかも後半になって妻の良子が小説に登場。「奥さんいるんかい!」と全読者が心の中で突っ込みを入れそうです。

久しぶりに自宅に帰った日の夜、良子にうっかり三重のことを話してしまう牧。小説の仕事が行き詰まり、唄と三味線に逃避し、別の色町に遊びに出かけたり、自堕落に……。体調も崩してしまいます。良子の目を意識するようになり、ついに「……あたし、先生が、……ちょっと、嫌いになりました」と三重に告げられて、別れることに。でも、冷却期間を置いたせいか、2年後再会すると、三重の恋心はこれまで以上に盛り上がります。12時のサイレンがなったら黙祷(もくとう)しお互い思い合うこと、オゾンパイプ(ハッカパイプに似たもの)を会うたびに「とりかえっこ」することを提案。間接キスにときめくピュアな三重。交換日記もはじめます。「永久未来まで心の夫婦」「一身同体、魂も一しょ」「ただ先生を一とすじに思いぬくという真心」といった熱い言葉が綴(つづ)られました。戦中、三重が久留米絣(くるめがすり)の筒袖の着物におなじ久留米絣の「モンペ」姿なのを「そんな風をしていても、ふしぎに似あうね」とほめる牧。淡泊だけれど時々ほめるのが女心をくすぐります。

関東大震災や戦争など困難が多い時代に、恋愛関係を長続きさせた2人。三重は、激動の世の中と無関係に、自分の恋愛で盛り上がったり落ち込んだりしていて、恋愛至上主義の強さを感じさせました。恋愛に夢中になれば天変地異や戦争も乗り越えられるようです。

しんさん・なめこ 東京生まれ、埼玉育ち。漫画家、コラムニスト。『大人のマナー術』(光文社新書)ほか著書多数。なめ子さんは、猫至上主義。天に召されてしまった愛猫が、ピンチのときは夢に出てきてくれたり、一瞬部屋にビジョンが見えたり。「愛情のチャクラを開いてくれた存在です」

文、イラスト=辛酸なめ子 撮影=中林正二郎(snow) 選=澁谷麻美(BIRD LABEL)

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