『虹いくたび』 川端康成
京都から東京に向かう汽車の中、琵琶湖の向こう側に虹を見つけた麻子が、向かいの席の男性と虹について語る美しいシーンからはじまる物語。心が清らかで優しい麻子、恋人を戦争で亡くした百子(ももこ) 、京都の芸者の子である若子の三人は、母親の違う三姉妹。百子の母親は自殺して、妹の麻子の母親は正妻です。麻子と百子はどこか父親の水原の愛を争っているような複雑な姉妹関係です。
家族で京都に旅行したときに、都踊(みやこおどり)の会場で、麻子が汽車で会った乳児連れの男性と偶然再会。同伴の若い女性(実は生き別れの妹、若子)は、姉妹の父親が建築家の水原と知ると、顔色を失い、立ち去ります。
妹と知らず「変だったわ。なにかにおびえたように、真青になって……。失礼じゃないの。」と百子は文句を言い、麻子はとりなすように「お召の可愛い(かわいい)柄が、よく似合ってたわ。」と着物をほめます。百子もさり気なく着物をチェックしていたようでした。若子はさすが母と姉が芸者だけあって着物のセンスが垢(あか)抜けています。
京都ではやたら人と遭遇し、百子は四条通で呼び止められます。見ると、戦死した百子の恋人、啓太の弟でした。「烈(はげ)しい羞恥(しゅうち)と憤怒(ふんぬ)とが、過去からよみがえった。」という心情は、ただごとではありません。昔、啓太への復讐のように、弟の夏二を一度だけ抱いて、取りすがる彼を突っぱなした百子。無邪気に父親と一緒に入浴してしまう純粋な麻子と対照的に、貞操観念が薄く、美少年たちを次々と愛(め)でていました。
でも、どんなに遊びの恋に身をやつしても、忘れられないのは啓太の思い出。それは「乳(ちち)碗(わん)」という強烈な一品です。啓太は航空兵として明日にも死ぬかもしれない身の上。百子の胸に母性を感じた彼は「百子さん、お乳の型を取らせてくれませんか。」と申し出ます。
「ええ?」と意味がわからない百子。啓太いわく、乳房の型から銀の碗を作り、「それを盃(さかずき)にして、僕の命の最後を飲みほしたいんです。」百子は不気味に思いながらも拒めず、石膏(せっこう)で型を取らせます。「底のところに、こんな小さい窪(くぼ)みが出来ましたよ。乳首だな。これは可愛い。」死を意識するとこんな高度な羞恥プレイができるとは。生き急いでいる啓太は娼婦(しょうふ)と戯れることも。ついに百子と体を重ねた彼は「ああ、つまらない。しまった。」と失礼なコメント。当然のように百子は激怒し、啓太は沖縄で戦死。
百子は誰も本気で愛せなくなって、竹宮少年や西田少年などを手玉にとって、飽きたら捨てる退廃生活。竹宮少年は自殺してしまいます。姉妹の父親、水原も、妻や愛人三人のうち二人が亡くなるという業の深さ。戦争という人の生き死にをくぐり抜けた当時の日本人は、モラルや世間の常識よりも、自らの本能や欲求に忠実に生きていたのでしょうか。誰も責任を取ろうとせず、炎上への危機感もなく、欲求の赴くままです。節目に登場する虹モチーフ。虹には祝福の意味がありますが、善悪の概念を超え、川端康成が登場人物の因果な人生を祝福してくれているようです。
しんさん・なめこ埼玉育ち。漫画家、コラムニスト。『大人のマナー術』(光文社新書)ほか著書多数。なめ子さんの頭上に虹が輝いたのは、昨年フジロックに行ったとき。「虹がうっすら出ているのを見て、慣れない山道で迷った疲労感が癒やされました」。これも虹の祝福ですね。 。
文、イラスト=辛酸なめ子 撮影=中林正二郎(snow) 選=澁谷麻美(BIRD LABEL)