『春の鐘』(上・下) 立原正秋
鳴海六平太は奈良の美術館館長で、妻と二人の子どもあり。月の半分は単身赴任状態で、妻の範子を放置していたら、男とホテルから出てくるシーンを目撃してしまいます。範子の相手は大人の会員制クラブで知り合ったセックスカウンセラーの太った男。その瞬間から鳴海は圧倒的に優位に立ち、妻のことを「下手物ものの陶器」「汚れてしまった単なる肉塊」、恥知らずな「汚れた濡ぬれ雑ぞう巾きん」と心の中で罵倒しまくります。子どもたちを放ったらかして性欲を満たすために男と密会する妻が小説の序盤で悪役になり、もう鳴海は読者の前で何をしても許される存在に……。
そして現れたのが二十代の薄幸美人、石本多恵。商人の家に嫁いだものの三年経たっても子どもが生まれなかったため離縁されたという不憫な身の上です。多恵の父の希望もあって鳴海の美術館で働くことに。同じマンションの別々の部屋に住むというのだから、このあとの展開が目に浮かびます。多恵は若いのに着物好きで、茶褐色の琉球絣にくすんだ黄色の無地の帯を着こなしたり、渋いセンスの持ち主です。古美術に造詣が深い鳴海は彼女を気に入り、京都や奈良の寺社巡りに連れ歩くように。小説なのに京都奈良のガイドブックの要素もあります。随所でうんちくを語る鳴海館長。美食ぶりもすごいです。仕事が暇なのか十七時頃に夕食をとり、懐石料理や鮎あゆ寿司、蟹かに、鴨かも、松まつ茸たけ、ビーフステーキなど食べまくっていて良い身分です。四十代なのに生活レベルと貫禄は六十代半ばくらいに感じられます。そんな鳴海に教養と甲斐性を感じ、多恵が惹ひかれていくのは自然な流れでし
た。鳴海も「羞はじらいのない」妻と反対の奥ゆかしい多恵に好意を抱いていました。連絡が欲しい時はドアの下に「ちょっとお声をかけてくださいませんでしょうか」と書いた紙を差し込み、女性から部屋に誘う時も「おたちよりくださいますか」と美しい言葉遣いで話して、着物姿でお茶を淹いれたり……有力者の男性に好かれそうな要素を備えています。「先生のおかげですわ」と立てたり、「わるい人」と男心をくすぐる言葉をかけたり、多恵もなかなかやり手です。多恵の「不確かな腰」に引き寄せられる鳴海と、「先生の魂とわたくしの魂がまじわった」と確信する多恵はついに深い関係に。「伊
達巻を解き、裾を割り、不確かな腰を抱きよせてみた」と、着物を脱がす描写が官能的。魂のまじわりを感じ「鋭い山」のような快感を得た多恵。二人は「至福といってもよい肉の歓よろこび」に浸ったそうですが、奥さんが先に不貞を働いたので、鳴海は気が楽だったと思われます。
そして後半も寺社巡り、妻の不貞、鳴海と多恵の濡れ場がくり返されます。寺でイチャついたりして欲に明け暮れる人間に対する警告か「春の鐘」が不吉に響きます。思い詰めた妻によって危険な目に遭ったりしますが、結局、鳴海と多恵との関係はダラダラ続きそうな気配です。ただ鳴海は血迷ったのか館長の仕事も辞めてしまい、一抹の不安が。男性優位な小説でしたが、書かれていない続きは、貧乏なおじさんでも愛し続けられるかという裏テーマで、男女の立場が逆転しそうです。
しんさん・なめこ 漫画家、コラムニスト。恋愛、スピリチュアルなど多彩なジャンルを幅広く取材、独特な目線で描く。『タピオカミルクティーで死にかけた土曜日の午後』(PHP研究所)など著書多数。