『女であること』川端康成 弁護士である佐山の妻・市子は弁護士である佐山の妻・市子は40を超えているが、10ほど若く見える女である。一家に、佐山が弁護士を務める死刑囚の娘・妙子と、市子の学生時代の友達の娘・さかえの2人の娘が居候にやってきて……。「女であること」の禍々(まがまが)しさを濃縮した1冊。(840円/新潮文庫)
弁護士の佐山貞次と美しい妻、市子の40代夫婦が、若い女子に翻弄(ほんろう)されるという、「女であること」の業が渦巻いている物語です。子どもがいない夫婦は、佐山が担当している死刑囚の娘、妙子を引き取って同居しています。そこへ市子の親友の娘、さかえが家出してきました。妙子は病弱で陰のある美少女ですが、さかえはタイプの違う少年っぽい美少女。世話好きな市子は、年下の女性からエネルギーを吸収し、それがアンチエイジングになっているようです。「縞(しま)のお召の丹前」など、時々着物を着る市子ですが、若い2人は洋服メインで、昭和中期、ちょうど世代の分かれ目なのかもしれません。
控えめで陰キャラの妙子と、わがままで気まぐれなさかえが気が合うはずがなく、一つ屋根の下で若干険悪な空気が漂います。小説の中で安易に仲良くなったりしないのも、緊張感を保つ効果があります。ナジャや椿(つばき)姫ひめ、マノン・レスコー、『痴人の愛』のナオミ、etc.……これまで古今東西の小説で魔性の女性が描かれてきましたが、『女であること』のさかえも十分対抗できる魔性ぶりです。描写にリアリティがあるので、川端康成の周辺にこのような女子がいたのかもしれないと思えます。
さかえはまず、大阪から家出して、憧れの「小母さま」の市子の家に向かいますが、その前に東京駅のホテルに滞在ししばらく東京見物をするという自由奔放ぶり。人の家にお世話になりながら、部屋は散らかし放題で、市子が起こしにくるまで朝寝をむさぼります。妙子の小鳥をぞんざいに扱い、女中に対してはつっけんどん。市子に対して、腕を絡めたり、頭を胸のあたりに押し付けたり、甘え方が尋常でないですが、佐山に対してはまた違った態度でかわいく甘えて油断できません。妙子に見抜かれ「こわい人ですわ」と警戒されます。幼なじみの光一を雑に扱いながらも時々誘惑。働こうとせず「苦労するなんて、ほんまにいやですわ」と言い放ち、男の人に対して夢がない、苦労はしたくないけれど激しい生活がしたい、などとわがままを言います。しかしそんなさかえ自身も自分の魔性ぶりに当てられて、自分で自分が嫌になってくるのでした。さかえが来てから家にいづらくなった妙子は、恋人の苦学生、有田の部屋でひっそりと同棲(どうせい)。その彼はどうやら体目当てであることがわかってきて……。
皆それぞれ「女であること」の葛藤の中にいるようです。女たちの悶々(もんもん)としたエネルギーが渦を巻き、甲斐性(かいしょう)のある佐山に瘴気(しょうき)が 集中したのでしょうか。交通事故に遭うという災厄に見舞われます。佐山夫婦は試練を乗り越えて、穏やかな生活を取り戻し、むしろさかえの刺激で夫婦愛が盛り上がったようでした。これまで女子2人を引き取って世話をしたり徳を積んでいたので、そこまで破滅的 なことにならなかったのでしょう。そしてさかえはまたどこかへ放浪の旅へ……次の魔性のターゲットは誰になるのか、まだ続きがありそうな終わり方で、かすかな恐怖感が余韻として残ります。
(文、イラスト=辛酸なめ子)
しんさん・なめこ 漫画家、コラムニスト。恋愛、スピリチュアルなど多彩なジャンルを幅広く取材、独特な目線で描く。『タピオカミルクティーで死にかけた土曜日の午後』(PHP研究所)など著書多数。