『華岡青洲の妻』 有吉佐和子 世界初の全身麻酔手術に成功した医師・華岡青洲。その陰には、人体実験に名乗りを上げて互いに譲らぬ母・於継と妻・加恵のすさまじいバトルが……。(490円/新潮文庫)
世界ではじめて全身麻酔手術に成功したレジェンド名医、華岡青洲(せいしゅう)。彼をとりまく人間ドラマを描いたのが『華岡青洲の妻』です。 今でこそ医者の妻というと安泰なイメージですが、江戸時代の民衆は貧しく、治療費も満足に払えないし保険もないので経済事情は厳しかったようです。地元の名門士族の娘、加恵は、医者の華岡家の奥様、於継(おつぎ)に見込まれ、京都で勉強中の息子の嫁にスカウトされます。加恵の父親は家の格が違うと難色を示しますが、密(ひそ)かに美しい於継に憧れていた加恵は喜んで受け入れます。夫となる雲平の顔も知らないままで……。於継の美貌から遺伝子的に美男子だと期待していたのかもしれませんが、現代に残る肖像画を見ると美貌の母の面影は感じられません。 婚礼は夫不在のまま執り行われました。華岡家では家計は切り詰められ、芋粥(いもがゆ)で何日もしのいだり、真面目で働き者の小姑(こじゅうと)二人と機織りに励み、できた綿布を商人に渡してお金に換えるというつましい生活。家族全員雲平に望みを託しているようでした。雲平なら将来何かなしとげてくれるという予感があったのでしょう。嫁に来た当初は於継も優しくて娘のようにかわいがってくれました。加恵は心酔し、お風呂で姑(しゅうとめ)が使ったあとの糠袋(ぬかぶくろ)で体を洗うほどでした。冷静に考えると気持ち悪いですが、それに気づかないほど盲信していたのでしょう。 しかしそんな蜜月も雲平が帰ってきてから怪しくなっていきます。雲平を溺愛(できあい)していた於継は急に加恵をライバルと見なし、表面上は変わらなくてもさり気なく意地悪してくるように。それに伴い、今まで加恵の目には姑の長所しか見えていなかったのが、化粧の下の「夥(おびただ)しい小皺(こじわ)」とか、身じまいばかり気にしているとか、息子に対する「淫(みだ)りがましい」態度などが見え出して、憎悪が芽生えます。洗脳が解けて姑の糠袋を捨て、自分だけのものを使うように。加恵と雲平の夜の夫婦生活が始まるとますます当たりが強くなります。妊娠した時は、嫁の体をいたわって栄養をつけさせているように見えて「生れてくるのは華岡の家のもんや」と世継ぎのためと言い放つ姑。嫁姑の敵意がうずまく華岡家では、犬や猫が雲平の麻酔の動物実験で死んでいったり、小姑の於勝(おかつ)が病に伏したり、加恵がうっかり子犬を踏み殺したり、負のエネルギーが立ちこめているようです。 雲平を巡って張り合う嫁姑は、ついに曼陀羅華を使った麻酔薬の実験に自らの体を差し出すというのが物語のクライマックス。着物が乱れぬよう、ほどけない結び方で紐で自分の体を縛る加恵はさすが士族の娘です。熱にうかされる狂気の妻の枕元に付ききりの雲平。そもそも母と妻が自ら申し出たとはいえ、普通の人ならこんな危険な実験しないのでは……と思えます。嫁姑の争いからも距離を置き、二人を使って人体実験。雲平の鈍感力はどんな麻酔よりも強力です。偉人になる人は感情に振り回されない、心の麻酔が発達しているのかもしれません。
(イラスト・文)辛酸なめ子
しんさん・なめこ 漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。恋愛、スピリチュアルなど多彩なジャンルを幅広く取材し、独自の目線で描く。新刊は『ヌルラン』(太田出版)。