辛酸なめ子の着物のけはひ 『蔵の中』宇野浩二

『蔵の中』宇野浩二 なじみの質屋の蔵の中で、質に入れた着物の虫干しをしながらその着物にまつわる女たちの思い出に耽(ふけ)る男……。

 私小説の巨匠と称された宇野浩二の短編『蔵の中』は、売れない小説家が主人公。着物が出てくるのに脱力系というかハードルが低めの異色の小説です。

「そして私は質屋に行こうと思い立ちました」と、主人公の山路が直接語りかけてくるような文体で、冒頭から引き込まれます。一ページ目で、身に着けている着物(小説内では「著物」と表現)にいたるまで全て質に入っていることを告白。「私の取り止めのない話を、皆さんの頭で程よく調節して、聞きわけして下さい。たのみます」と、いきなりダメ男感が濃厚です。その後も「辛抱して聞いて下さい」と何度も出てきて、自虐モードですが、こういった男性にハマるとズルズルいきそう、と危険な魔力も感じさせます。
着物道楽の主人公は、質屋に入れっぱなしになっている自分の着物を虫干ししたいと思い付きます。今まで利息を律儀に払い続けてきたという信用があったので、懇願された質屋は渋々了承。十五年以上前に質に入れた着物の所有権を手放さず、利息を払い続けている主人公。四十代になっても下宿生活で箪笥(たんす)を持たず、近所の質屋はクローゼット代わりなのかもしれません。こんな所有の形があったとは。女も着物も同じくらい大好きだと公言する主人公。作家はある程度、破天荒な部分があってほしいですが、彼の一日の時間配分も普通ではありませんでした。一日を三つに分けて、寝たり起きたり食事をしたり、をくり返しているのです。二度三度着物を着替 えることも。ひとりファッションショー状態です。宵のうちには芸者町を散歩し、帰って気が向いたら執筆するという優雅な生活。しかも一日の大半はお気に入りの友禅縮緬(ちりめん)の蒲団(ふとん)の中で過ごしているという……。もちろんその蒲団も質に入れてしまいました。そんな他人の蒲団を買う人なんているのか疑問ですが……。美人の読者と交流を持ち、逢引(あいびき)に着ていく着物を買うため蒲団を質屋に入れたのに、彼女に捨てられてしまったという切ないいわくつきの蒲団です。

 主人公は質屋の蔵の二階で愛する蒲団や着物と再会し、一枚一枚眺めながら女の思い出を蘇(よみがえ)らせます。「越後上布の絣(かすり)の帷子(かたびら)」「藍の瀑縞(たきじま)の絹縮(ちぢみ)」「濃鼠(こいねず)の立絽(たてろ)の薄羽織」「薩摩(さつま)上布」など、どれも女の思い出を呼び起こすそうで、主人公のモテ自慢が入っています。 「薩摩上布」は、十歳年下の、人の妾(めかけ)の女に買ってもらったとか、蒲団に入って女の思い出に浸る主人公。ここまでダメというか頼りない男性は、強い女性にモテそうです。質屋の主人のヒステリックな妹(美人)に、蒲団に入っているところで声をかけられた主人公。いい感じになりかけたのですが結局うまくいかず……。そもそも成就しなかった思い出の着物に囲まれているので、部屋に負のエネルギーが充満していそうです。虫干ししても、着物にまとわりついた浮かばれない念は浄化できないのでしょうか。主人公が質に入れた着物、もしかしたら今もどこかで誰かが着ているかもしれませんが、運気が下がっていないことを祈ります。

(イラスト・文)辛酸なめ子

しんさん・なめこ 漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。恋愛、スピリチュアルなど多彩なジャンルを幅広く取材し、独自の目線で描く。新刊は『ヌルラン』(太田出版)。

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