『女坂』円地文子 明治時代に、真実の愛を知ることもなく生き、すべてを犠牲にして封建的な家制度に服従した女たちの一生の悲哀と怨念……。
夫は地方の大書記官で、経済的にも豊か。妻の倫(とも)はセレブ生活を謳歌(おうか)しているかと思いきや、娘と東京見物に来た理由は好色な夫の妾(めかけ)探しだった……そんな衝撃のシーンから始まる『女坂』。しっかり者で気が強い妻、倫に対して夫の白川行友の愛情は冷めつつありました。だからといって「若い……出来るならおぼこな娘がいい」と妻にオーダーするとは。権力と色欲は今も昔も切り離せないようです。倫も若い娘をたくさん見ていたら目利きになって「生娘ではないと思いますよ」と、妾候補の娘の経験値が一発でわかるように。そしてやっと見つけたおとなしくて美しい十五歳の処女、須賀を連れ帰りました。須賀を見た時の夫は「瞳が暗い水のゆれるような光」をたたえ、それは女に心が動き出した兆しであると妻は知っていました。「血肉が蛆(うじ)に変ってゆくような不甲斐(ふがい)ない苦しさ」を覚える倫。しかし妾探しを手伝った以上、倫も夫と共犯です。封建時代の風習が残る明治時代は、理不尽なことでも夫には従うのが女の道。今だったら大炎上しそうです……。
無邪気な須賀は、小間使いというていで白川家に入ったのに、夏冬の裾模様の紋付、朱珍の丸帯、絽(ろ)や明石(あかし)、上布、お召、島縮緬(ちりめん)、長襦袢(じゅばん)と、高価な着物一式を買い与えられ、不思議な気持ちでした。地方官吏の経済力は半端ないです。行友は血走った目で着物を着せ替えます。一ヶ月ほど経(た)ち、ついに行友は須賀に手を出し、須賀は「自分の身体は金で売られたのだ」と実感、美貌に暗い影が。白川は須賀を寵愛(ちょうあい)しますが、数年後、新たな小間使いに手をつけます。身体の弱い須賀に無理をさせないため新たな女を作ったという強引すぎる言い訳をして……。小間使いの由美も突然行友に陵辱(りょうじょく)され「こんな身体になって……はずかしい」と泣く姿がいたわしいです。慰める須賀との間に友情が生まれるのがわずかな救いです。行友の息子、道雅は親の因果か、どうしようもないダメ男でした。無能力でケチでガツガツして嫉妬(しっと)深く不愉快な発言ばかりする道雅。最初の妻は早世し、次の奥さん、美夜も夫の本性に気付いて別れを希望。妻が病気でも性交を求め、言うことを聞かないと暴れる道雅。『女坂』にはひどい男性ばかり出てきます。そんな美夜に、なんと行友がまたもや手を出し、寵愛することで白川家から出ていくことを防止。この家は家長の性欲で回っています。
夫の女道楽に耐え続けた倫は、いやな婆(ばあ)さん扱いされたり、須賀に「奥さまがいなくなってくれたら」と思われたりして不憫(ふびん)です。病気で死ぬ間際に、自分の死体は海に「ざんぶり」捨ててほしいと「ざんぶり」を連発したのは、夫に対し、自分への扱い方がひどかったことを気付かせようとしたのでしょうか。言霊に戦慄(せんりつ)しつつ、そんな最後の一言でしか夫に物申せなかった明治の女性(ご先祖)に対し、尊敬と憐憫(れんびん)が入り交じった思いを抱きました。今は経済力的にも精力的にも男性は元気がなくなってしまいましたが……。
(イラスト・文)辛酸なめ子
しんさん・なめこ
漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。恋愛、スピリチュアルなど多彩なジャンルを幅広く取材し、独自の目線で描く。新刊は『魂活道場』(学研プラス)。