辛酸なめ子の着物のけはひ 『晩菊』林 芙美子

『晩菊』林 芙美子 50を越えてなお美貌をたたえ る元芸者のきんが、昔の男の 突然の再訪に心揺れ、入念に 身支度をはじめる。だがやって きた男にきんは幻滅する……。

 老女、と言ってしまうにはまだ若い、でも美魔女という概念もなかった終戦直後の56歳独身女性が主人公。元芸者のきんはかつては美貌が評判でしたが、今では寄る年波を感じています。ある日の午後、かかってきた一本の電話。50歳頃、男女の仲だった田部からの連絡でした。女性50歳、男性20歳前後とは現代でもなかなかない年の差で、きんのやり手ぶりが伝わります。物資がなく、化粧品も発達していない時代、30代後半に見えたというアンチエイジングは驚異的です。

 さっそく、きんの身支度が始まるのですが、当時の美容法がわかる描写が興味深いです。「自分の老いを感じさせては敗北」だと風呂に行き、帰ってくると氷を砕いてガーゼに包み、顔をマッサージ。その後「ハクライのクリーム」で顔を拭きます。股の肉付きと鹿皮のように柔らかい肌が心のよりどころ。真っ白い縮緬(ちりめん)の襟に藍大島の絣(かすり)の袷(あわせ)といった、玄人(くろうと)っぽい地味な着物の着こなしに女の品格が漂います。さらに老練の美容テクには「冷酒(ひやざけ)を五勺(しゃく)ほどきゅうとあおる」と、ほろ酔いで眼もとが紅(あか)く染まり、眼がうるむという効果が。クリームで顔の艶を抑え、口紅は濃いダーク系。ネイルは塗らず、手の甲に乳液をつけて爪は磨く。香水は肩 と二の腕にon。さすが元芸者です。また、彼女は「伊勢物語風に、昔男ありけりと云(い)う思い出」を一人寝の寝床の中で脳内再生し、女性ホルモンを分泌することでも、若さが保たれていたようです。

 林 芙美子先生は現実的に、きんの家計についても記述。娘時代、カリスマ的な芸者の姿を見て「女が何時(いつ)までも美しさを保つと云う事は、金がなくてはどうにもならない事」と悟ったきん。家を安く買って売るという、男だけでなく不動産も転がしてお金を貯め、担保を取って人に貸したりしていました。女中と二人、戸締まりに用心して暮らしていたのです。花の栽培をしている40歳そこそこの男性が花をお土産に通ってくる、という穏やかな生活。でも、その彼より若い田部が久しぶりに訪ねてくることになり、心が華やぎました。

 昔のアバンチュールの相手との再会シーンですが、お互いの姿を品定めする描写には試合のような緊張感が。田部には、昔の青年らしさのおもかげもなくなっていました。いっぽうきんは「昔のままの美しさ」。この勝負はきんが優勢です。ショボくれた雰囲気の田部。切り出したのは、お金の話でした。「二十万位でもどうにかならない?」。きんは気持ちが冷めるのを通り越し、寒気を感じ、幻滅。田部は、取りつく島のないきんに対し殺意まで覚えるのでした。悶々(もんもん)とする田部の前に、きんは昔の美青年だった田部の写真を出してきます。田部は、きんだけでなく過去の自分にも完全敗北。その後開き直って「本当に都合つかないかねえ?」と金の無心を続けます。戦争を経た、男女の悲劇の恋愛はありがちですが、もはや喜劇のような展開。女性の化粧や念入りな身支度は結界でもあり、男性の攻撃を阻止する効果があると、きん姐(ねえ)さんに学びました。

 

(イラスト・文)辛酸なめ子 

 

しんさん・なめこ  漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。恋愛、スピリチュアルなど多彩なジャンルを幅広く取材し、独自の目線で描く。新刊は『魂活道場』(学研プラス)。