『痴人の愛』谷崎潤一郎 生真面目なサラリーマンの河合 譲治は、カフェで見初めて育て上げた美少女ナオミを妻にする。成熟したナオミの周りにはいつしか男友達が群がり、やがて譲治も魅惑的なナオミの肉体に翻弄され……。
谷崎潤一郎は猫ブームや美少女育成など現代にも通じる風俗を先取りしていて、生まれるのが早すぎた天才作家です。『痴人の愛』は谷崎の私小説とも言われている衝撃的な作品。
主人公の河合譲治は28歳の電気会社技師。地黒で歯並びも悪く微妙な外見でしたが給料は150円(当時の初任給は50円)あり、余裕がありました。カフェの給仕をしていた13歳年下の少女ナオミと出会い、ハイカラな名前と西洋的な顔立ちに心惹(ひ)かれます。譲治は、彼女を引き取って成長を観察しながら、教育をほどこし、身の回りの世話をしてもらうことを思いつき、実行。彼に溺愛(できあい)され、ろくに家事もせず、習い事をしたり、活動写真に行ったり、譲治に馬乗りになって乗り回したりと楽しく暮らすナオミ。衣装も次々買ってもらって、着物がそこら中に散らかっている状態です。「部屋の装飾にもなる」というのは着物の意外な活用法です。
英語や音楽を習わせ投資していたのに、譲治は「ナオミは自分の期待したほど賢い女ではなかった」という残念な事実を悟ります。でも肉体的には最高で、男として彼女にハマっていきます。女子を教育するなんて上から目線で下心満載だった譲治も、結局ナオミと精神的には同レベルです。クレオパトラに籠絡(ろうらく)されたアントニーに共感していましたが、偉人とは違い、色欲にかられたキモいオヤジです。現代にもこんな例は腐るほどあります。ナオミはますます手に負えないモンスターと化していきます。譲治からお金を引き出し、慶応マンドリン倶楽部(くらぶ)の学生とツルんだり。ちなみに不肖私は中高、マンドリン部に所属していたのですが、この地味な部活が1920年代はイケてるパリピのイメージで描かれていて衝撃でした。
譲治は郷里の親に手紙を書いてお金を無心。舞踏会に参加するために大金が必要なのです。帝国劇場の美人女優や慶応男子たちとダンスに興じるケバい着物姿のナオミ。そこで、残念なルックスの女性を猿だと笑い、美人女優はドン引き。精神性の低さを露呈します。いっぽう譲治は無様なダンスを晒(さら)し強烈なアウェイ感に見舞われます。「みんな虚栄心とおべっかと己惚(うぬぼ)れと、気障(きざ)の集団じゃないか?」と思いながらも、ナオミを見せびらかしたい自分にも虚栄心があることを否めません。
肉体的に奔放なナオミは慶応男子を荒らしていたことが発覚。譲治がナオミの足を舐め回していたことなど彼らにネタにされていて哀れです。譲治は「ばいた! 淫売(いんばい)! じごく!」と激昂(げっこう)し、ナオミを束縛した挙げ句、出て行けと命じますが、彼女が不在になると禁断症状に苦しみます。粗悪なドラッグやジャンクフードほど依存性があるのです。後世の人々に警鐘を鳴らす小説です。
(イラスト・文)辛酸なめ子
しんさん・なめこ 漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。恋愛、スピリチュアルなど多彩なジャンルを幅広く取材し、独自の目線で描く。新刊は『魂活道場』(学研プラス)。