『春の雪』三島由紀夫 誇り高き侯爵家の御曹司が、伯爵家令 嬢との禁じられた恋に、命を賭して求めたものとは?
主人公は侯爵家の御曹司、松枝清顕(まつがえきよあき)。優雅で夢見がちな十八歳の美青年で「自分の存在理由を一種の精妙な毒」と感じている、耽美(たんび)なキャラです。幼い頃に預けられた伯爵家には二歳年上の美しい令嬢、綾倉聡子がいて、姉と弟のように育ちながらも、清顕は恋の芽生えを感じていました。
松枝侯爵家の庭の池で、滝口に引っかかっている黒い犬の屍(しかばね)を発見する序盤のシーンは、不吉な予兆のようです。その後、聡子は清顕に「私がもし急にいなくなってしまったとしたら、清様、どうなさる?」と急に思わせぶりなことを言い出し、彼を動揺させます。プライドが高い彼は、聡子に対し怒りの気持ちがわいてきて、聡子に対し侮辱の手紙をしたためます。要約すると、聡子の発言で不快になったので芸者遊びをして男として一線を越えたら、女性観も一変し、女は「みだらな肉を持った小動物」にすぎない、とまで書いています(実は作り話で未経験)。童貞を怒らせると愛が憎しみに……。清顕は気まぐれで、こんな手紙を送りながら、高校に留学しているシャムの王子たちに聡子を自慢したい気持ちが生まれ、やっぱり読まないで火中してほしい、と彼女に頼みます。こんな調子で、清顕の感情に翻弄(ほんろう)される周りの人々。学友の本多も卒業試験が近いのに清顕の恋路に振り回され、書生の飯沼や、聡子の老女の蓼科(たでしな)もデートのセッティングや手紙を届けるなどのパシリに使われています。それだけサポートして二人が結ばれたらやったかいがありますが……運命は残酷でした。というか、夢想家の清顕には、悲恋に浸りたい欲求があるようで、二人は結ばれない方向へ……。
さて、シャムの王子様に紹介された聡子は喜び、「王子様方はこんなお婆(ばあ)さんがとお愕(おどろ)きになったでしょうけれど」と、謙遜。二十歳でお婆さん……これだから近代小説は油断できないです。お婆さんとまではいきませんが、聡子は精神的にかなり大人なことは間違いありません。恋の主導権も彼女がリード。ある時は、一緒に雪見をしたいとリクエスト。さすがセレブの清顕は車夫を雇って俥(くるま)で雪を見に行くことに。清顕は「どこでもいい。どこへでも行ける限りやってくれ」と車夫に命じますが、逃避行的なニュアンスとともに、底知れぬリビドーを感じさせるセリフです。ひざ掛けの下で手を握り、俥の揺れを利用してキス。清顕は、聡子が涙を流しているのを知って、男の自尊心を満たしました。つくづく面倒くさい性格です。
三島由紀夫先生はエンターテイナーで、お花見の宴(うたげ)のシーンでは二人が人目をはばかって抱き合いキスするとか、適度に濡(ぬ)れ場を入れてきて、読者を飽きさせません。クライマックスは、宮家の殿下との婚約が決まった聡子と清顕が禁断の逢瀬(おうせ)をするシーン。当初は抵抗する聡子。しかしキスをしたら火がついて「そこから果てしれぬ甘美と融解」へ……。彼が着物の帯の解き方を知らないという描写がリアルです。現代でも男性はブラを外すのに難儀するそうですが、着物の脱がせ方の難しさには及びません。脱がせてもその後どう復元すれば……。事が終わって、聡子が手を叩たたくと隣の部屋から老女の蓼科が現れ無言で畳をいざって来て、聡子の着物を着付ける、というシーンが怖かったです。全てを知っている老女。若い二人のエキスを吸収する老女に軽く感情移入してしまいました。激しすぎる恋愛は身の毒です。横で見ているくらいがちょうど良いのかもしれません。
(イラスト・文)辛酸なめ子
しんさん・なめこ
漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。アイドル観察からスピリチュアルまで幅広く取材し、執筆。新刊は『おしゃ修行』(双葉社)。