『婦系図(おんなけいず)』泉 鏡花 恩師への義理立てから別れねばならぬ若 きドイツ文学者早瀬主税と芸者あがりのお蔦。大学教授の酒井俊蔵の娘お妙の純情。やがて早瀬は……。新派悲劇で も人気の作品。
何年か前、墓マイラーが流行(はや)った時に雑司ヶ谷の泉 鏡花先生のお墓にお参りし、石でできた名刺入れがあったので、天国の大作家と交流する気持ちで入れてみたところ、お墓を管理する方から後日電話がかかってきて恐縮した思い出が。そんなご縁に思いを馳(は)せつつ、今回『婦系図』を拝読したら、まず装飾的で難解な文体の壁に当たりました。しかし独特のリズムに身を任せるうちに、登場人物が活動写真のように動きだし、波瀾万丈なドラマに心奪われました。
お蔦(つた)という女性が酸漿(ほおずき)を鳴らすシーンから始まります。近所の奥さんが、23歳で酸漿を鳴らすなんて素性が知れたもの、と噂していますが、はすっぱなアイテムだったのでしょうか。元芸者の彼女は文学士、早瀬主税(ちから)と密(ひそ)かに同棲。主税は、それまで大学教授の酒井俊蔵の家に書生として世話になっていました。一緒に育った酒井の娘、妙子とは兄妹のように仲が良いです。
その妙子を見初めたのが主税の友人、河野英吉。「高級三百顔色なし」と女学校で際立つルックスや知性に目を付け、河野家の嫁にふさわしいと判定します。英吉の父親、英臣が野心家で、娘全員、医学士や工学士のところに嫁がせ、名門一族として成り上がろうとしています。子孫の代で貴族院で一党を立て、内閣を組織したい、そのためには戦略的な結婚が必須、という壮大な野望の持ち主。それに賛同できない主税でしたが、お蔦と同棲しているので強く出られません。
しかし酒井教授に、ついにお蔦のことがバレてしまいます。その時の教授の罵倒ぶりが半端ないです。「その間抜けさ加減だから、露店(ほしみせ)の亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓に成りやあがったな、田舎漢(いなかもの)め!」「人間並の事を云(い)うな、畜生の分際で」と、教授とは思えないほど口汚く罵(ののし)り、英吉との縁談の話で娘が品定めされたことについても激げき昂こう。この小説では、上級国民の男女の本性や出自が明快に暴かれていきます。
酒井教授に何を言われても頭が上がらない主税にも弱味がありました。後半、明らかになるのですが、主税は少年時代「隼(はやぶさ)の力(りき)」という名で知られた掏摸(スリ)だったのです。スリの少年を引き取って娘と一緒に育てる教授もどうかと思いますが、やたら主税を気に入っている教授。英吉に対し、主税が納得しなければ娘は嫁にやれない、と言い出します。
主税は酒井に叱られてお蔦と別れ、静岡へ引っ越す事に。列車の中で「藤紫のぼかしに牡丹(ぼたん)の花、蕊(しべ)に金入の半襟、栗梅の紋お召の袷、薄色の褄(つま)を襲(かさ)ねて、幽(かす)かに紅の入った黒地友染の下襲ね」と着物のゴージャス感が行間からも伝わる美しい貴婦人と出会います。彼女は英吉の妹で理学士夫人の菅子(すがこ)でした。主税に近づき、英吉と妙子の結婚を許すようにあの手この手で籠絡(ろうらく)しようとします。時には色仕掛けで……。菅子にアプローチされたと思ったら、長女の道子ともいい感じに。ちょいワルのフェロモンにお嬢様は弱いのでしょうか。女心を盗むスリのテク。別れた後、病床に伏してしまったお蔦が不憫(ふびん)ですが、同じく静岡に行ったきりの主税から放置されているお妙は、お蔦をお見舞いに行ったりして女同士の交流が生まれます。
主税はいけすかないブルジョア一家、河野家に入り込み、娘たちを一族の繁盛のため使った英臣に一矢報いる機会を窺(うかが)います。途中毒殺されかけますが、お蔦の魂が乗り移った蛾(が)に助けられます(蛾というのがまた切ないです)。ついに英臣の前で本性をむき出しにした主税は、ドイツ文学者の顔から豹変、「お前さん」「〜だぜ」と粗野な口調に。主税のキャラ変の驚きで悲劇的な結末に浸ることもできず、ある種のショック療法を与えられる小説です。
(イラスト・文)辛酸なめ子
しんさん・なめこ
漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。アイドル観察からスピリチュアルまで幅広く取材し、執筆。新刊は『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』(光文社新書)。