『晩菊』の杉村春子
武田百合子のエッセイに、時効が迫る逃亡犯についての一文がある。逃亡先の菓子店を繁盛させ、結婚を申し込まれたり再び姿を消したりする彼女に何かを感じた百合子さんが「頑張って下さい」と書いているところが好きだった。この映画を観て、その「頑張って下さい」という言葉がこだました。
主人公の倉橋きん(杉村春子)、鈴木とみ(望月優子)、小池たまえ(細川ちか子)は、むろん逃亡犯ではなく、若かりし頃は絶好調だった元芸者。五十代半ばで辿り着いた境遇は、独り者とシングルマザーである。芸者時代のように男性に頼って生きる道は明らかに無理そうだ。
金貸しをして生活しているおきんさんはお手伝いさんと二人で暮らす。神様仏様お金様、お金を増やすこと以外眼中になし。箪笥預金の入った箪笥の鍵を神棚に隠し、戸締りも抜かりなく、全く他人を信用しないおきんさんを観ているとやるせない気分になるが、歯切れがよくて迷いのない行動には暗さがなくて最高だ。
昔好きだった男・田部(上原 謙)が久しぶりに訪ねてきた。おきんさんは柄にもなく華やいだ声を出す。火照りを冷ますためにガーゼで包んだ氷を頰に当てるまでしていた。けれど、言うまでもなく成瀬巳喜男作品に登場する色男ほど、ろくでもない男はいないのです! 映画はこのあたりで急速に集約されて、晩菊とはこのことか、と鮮明になっていく。田部の写真を燃やして〝こんなのは吸い殻ですわ〞と知らんぷりする格好よさったらなかった。
それに比べて彼女が経てきた時間を想像もせず、若い頃と同じように近づく田部のボンクラぶりよ。おきんさんが唯一長閑にやっていけるのは商売相手の板谷(加東大介)だ。彼とはお金を介して対等な関係が成立している。でもおきんさんは気づかないみたいだ。
おとみさんとたまえさんは路地裏の質素な家に同居中。賭け事好きで酒飲みのおとみさんは、今この一瞬を楽しく生きる豪快な人。たまえさんは息子を過保護に育て過ぎた心優しき人。二人は子どもが巣立ったとき、淋しくて一緒の布団にくるまって寝る。このコンビのシーンが本当によくて、私は心から「頑張って下さい!」と思った。
おきんさんたちはいつも縞や絣の渋い着物をお召しだ。それに対して町を行き交う人はすっかり洋装。彼女たちを真似てモンローウォークをするおとみさんが、キュートで愛しかった。
文、イラスト=浅生ハルミン
あさお・はるみん イラストレーター、エッセイスト。「福島の三春郷土人形館で、古いこけしの退色した着 物の柄を赤外線撮影で浮きあがらせた検証写真を拝見しました。赤い菊の花がよみがえっていました」