文様のふ・し・ぎ 誰が袖
香りと記憶は結びついているとよくいわれる。雑踏の中、すれ違った人の中に覚えのある香水の香りがして振り向いた、という経験がある人も多いのではないだろうか。例えば平安の時代は、衣に香を薫(た)き染(し)めることが貴族の嗜(たしな)みのひとつだったという。そんな雅(みやび)な世界ではないが、まるで香りがスイッチのような役目をして、記憶の扉が開くことがあるのだ。
それは人だけではなく、場とのつながりにも言えること。数年ぶりにいらしたお客様から「あぁこの香り、懐かしい」と言われることが度々ある。自分にとっては日々を積み重ねて馴な染じんだ日常的なもので、店内に活いけたハーブやコーヒーの香り、開店前に入り口に立てるお香などが一体となっているのだろう。
意図せず誰かの良い記憶として刻まれる香り。そのひとつになっていたとしたら、こんなに嬉(うれ)しいことはない。
文=長谷川ちえ エッセイスト、器と生活用具の店「in-kyo」店主。9月には陶芸家くまがいのぞみさんの個展を開催予定。展示の詳細や日々の出来事はInstagram@miharuno.inkyoにて。
イラスト=山本祐布子