第十回  上杉本 洛中洛外図屏風

〔 2485人の人生が行き交う戦国の都〕

 

 

鎌倉から再び幕府が戻ってきた室町時代の京都は、公家と寺社に武家を加え、政治・宗教・文化の首都としての輝きを取り戻す。このころに生まれたのが、洛中洛外(らくちゅうらくがい)=都の風景や風俗を描いた、《洛中洛外図》だ。ところが応仁元(1467)年から約10年間、都を戦場として続いた応仁・文明の乱、その後の大火によって、都は荒廃が続いた。格式高い寺社が焼け、王朝以来の祭礼が廃れていく中で、かつての都を懐かしむ人々の思いに応えるように、《洛中洛外図》は必ずしも描かれた時点の風景ではない、失われたランドマークや行事を盛り込むようになっていく。その頂点に位置するのが、狩野派の若き棟梁(とうりょう)狩野永徳が描き、何らかの事情で完成後約9年の歳月を経て、天正2(1574)年春、この絵を手に入れた織田信長から上杉謙信へ贈られた、《上杉本洛中洛外図屏風》だ。

 

 六曲一双の屏風の中には、さまざまな身分・職業を持つ2485人(諸説あり)もの人間が描き込まれている。詳細に見ていけば、戦国時代の京に遊ぶ心持ちになれるが、今回はその中から2カ所に注目した。左隻の6扇目には、職人たちの集住する地域が細やかに描写されている。その一角に座って何やら作業にいそしんでいる女が操るのは糸車。読者にはおなじみの組紐を組んでいる。傍らの小屋では、糸や組み上がった紐が売られているようだ。一方、右隻の6扇目では当時の三管領の1人、斯波(しば)氏の屋敷前で闘鶏が行なわれている。それを囲む人々の中に、高貴な身分を思わせる少年が交じっている。実は永徳は少年の頃、青年将軍だった足利義輝に謁見している。恐らくこの屏風は義輝の注文によって描かれ、完成を待たずに注文主が戦死したため行き場を失い、信長の手に渡った。であるならば、華やかな京の市中に佇む少年こそ、永徳が哀惜の念を込めて描いた、義輝その人ではないか――。そう推測する研究者は少なくない。

 

 

 

文=橋本麻里

はしもと・まり 日本美術を主な領域とするライター、エディター。公益財団法人永青文庫副館長。明治学院大学非常勤講師。近著に『SHUNGART 』(小学館)、『京都で日本美術をみる 京都国立博物館』(集英社クリエイティブ)、『変り兜 戦国のCOOL DESIGN』(新潮社)など。

 

『戦国時代展 『戦国時代展 -A CENTURY of DREAMS-』

 会場/京都府京都文化博物館 (京都府京都市中京区三条高倉)

会期/2017年2月25日~4月16日

(上杉本洛中洛外図屏風の展示は~3月12日まで)

開室時間/10:00~18:00 金曜は~19:30 (入場は閉室の30分前まで)

休館日/月曜(祝日の場合開館、翌火曜休み)

入館料/一般1300円

問い合わせ先/☎075-222-0888(代表)

http://www.bunpaku.or.jp

 

 

 

狩野永徳画 1565年ごろ 米沢市上杉博物館蔵(国宝) (上)右隻、(下)左隻